「我というは煩悩なり」【メルマガ連携】

※この記事は、「Sheetmetal メールマガジン」No.248(2024年10月30日配信)からの転載になります。

 

ウクライナ・中東・アフリカ・東アジア・南米では宗教・民族・国家間での紛争や戦争で毎日、多くの人々の命が失われている。「平和」な日本で暮らしていると、そうした惨劇のニュースを毎日見ている私自身も含め、それらを他人事としてあまり気にも留めない。平和な日本に生まれて良かったという感激もなくなっている。その一方で毎日起こる事件・事故のニュースに、被災された方々やその家族のことを心配したりしている。それが日本人としてのアイデンティティーなのだろう。

 

私たちの思考はどうしてそうなるのかを考えているとき、偶然、全国各地で賦算(ふさん)と呼ばれる「念仏札」を渡し、踊りながら南無阿弥陀仏(念仏)と唱える「踊り念仏」を行い、徹底的に自身の所有物を捨てたことで「捨聖(すてひじり)」とも呼ばれた一遍上人の「我(が)というは煩悩なり」という格言が、毎月必ず見ている善光寺大本願のホームページの「10月の言葉」に紹介されていた。

 

人には生きていく中で、日々不安や苦悩、煩悩がある。それがなくなれば生きているという意味さえなくなるくらいである。にもかかわらず、私たち人類は不安や煩悩、苦悩がなくなるようにと念願し、その念願を成就するがために神や仏などの宗教に頼ろうとする。しかし、「南無阿弥陀仏」「アーメン」「アッラホアカバル」などと高らかに祈り、叫んだりしても、それは私たちの不安・苦悩・煩悩を除去するものではない。

 

一遍上人は煩悩や苦悩、不安に直面して、その背後にある人間存在のあるがままの姿を呼び戻すために、「我というは煩悩なり」と言われ、徹底して自身の所有物を捨てられたのだろう。

 

私たちの生活や心の中には、思いがけない穴がポッカリとあくことがあり、そこから冷たい隙間風が吹くことがある。病気だったり、大切な人の死であったり、他人とのもめごと、事業や仕事の失敗など、穴の大小・深さもさまざま。それが不安や苦悩、煩悩になっていく。そしてその穴を埋めようと、神や仏にすがる。

 

「我というは煩悩なり」。心に叱り刻んでおきたい言葉だ。