維新の礎になった人々の夢と希望を背負う日本のモノづくりに誇りと勇気を感じた【メルマガ連携】

※この記事は、「Sheetmetal メールマガジン」No.100(2019年2月28日配信)からの転載になります。

 

久しぶりに鹿児島へ行きました。

到着した日はあいにくの空模様で、海抜1,117mの桜島も2合目付近までしか見えませんでした。

しかし、翌日は快晴で、水蒸気を上げる桜島を見ることができました。

 

今から170年ほど前に明治維新を成し遂げた多くの逸材が鹿児島県(当時は薩摩藩)から輩出されたことは、みなさまもよくご存じのことと思います。

そして彼らの後ろ盾となったのが、1851年に第11代薩摩藩主となった島津斉彬であることもよく知られています。

斉彬が亡くなるまでの8年間で成した偉業は明治維新のみならず、日本の産業発展にも多大な貢献をしています。

 

薩摩藩主の別邸があった磯御殿(現在は仙巌園)に、斉彬は「集成館事業」と呼ばれる西洋の進んだ技術を導入した工場群をつくりました。

斉彬は欧米列強の脅威に対抗するには産業や軍備の近代化が急務と考え、「殖産興業」と「富国強兵」を唱え、「集成館事業」を推進していきました。

 

「集成館事業」では、製鉄・大砲・造船・蒸気機関・ガラス・陶器・繊維・化学工場など、多岐にわたった取り組みが行われました。

1850年初頭から1860年代という極めて短い期間で整備がなされ、集成館周辺は当時としては東洋一の工場群を形成するに至っていたといわれています。

そのことから「集成館事業」は近代日本の産業革命の先駆けであり、日本の近代化の礎となったともいえます。

2015年にユネスコは尚古集成館を「明治日本の産業革命遺産」として世界文化遺産に登録しました。

 

当時は西洋からの指導者も不在の中で、唯一手がかりになったのが西洋の書物や取扱説明書。

斉彬はこれらの書物や資料を翻訳させ、そこに記述されたとおりの手順と手法でさまざまな道具・装置・機械を製作、それらを稼働させてさまざまな製品づくりを行いました。

斉彬の先見的な采配は、それを薩摩藩が独占するのではなく、図面や解説書を佐賀藩や越前藩など、当時としては開明な藩主がいた雄藩に提供、道具や装置、機械、技術を共有したことです。

そして素晴らしいのは、書物に頼った開発を進める過程で、日本古来のモノづくり手法や考え方を採り入れ、導入した技術以上に改良・改善して日本独自の技術・製品を開発したことです。

 

1863年に勃発した薩英戦争では、7隻の英国軍艦の砲撃で鹿児島城下は焼け落ち、灰燼に帰しました。

しかし、薩摩藩の砲台から発射した大砲は英国艦隊の3隻に命中、一矢を報いました。

薩摩藩はこの戦いで外国の軍事力の強さを認識、英国も薩摩藩の実力を評価し、以後、両者は接近していきました。

 

英国により植民地化されたアジア諸国は、英国の技術や設備をそのまま導入して近代化を進めましたが、日本は導入した西洋技術に改良・改善を加え、より素晴らしい製品を生み出しました。

その能力を見て取った英国は、日本に対して畏敬の念を持ったようです。

このことからも、当時から日本の近代化は西洋の進んだ科学技術を導入する一方、それらをアレンジ、それ以上の素晴らしい製品に仕上げる「匠の技術、能力」を備えていたことがわかります。

 

明治維新に関わった多くの逸材たちは、享年49歳の西郷隆盛をはじめ、その大半が50歳に満たない壮年期に亡くなっています。

当時、そんな彼らも眺めたであろう蒼い錦江湾に浮かぶ桜島を目の前にして、日本の近代化の礎となった人々の努力と思いを強く感じるとともに、日本のモノづくりは、こうした人たちの夢や希望も背負っていることを再確認しました。

日本のモノづくりに改めて誇りと自信を持つことができました。