※この記事は、「Sheetmetal メールマガジン」No.23(2016年5月31日配信)からの転載になります。
2年ほど前、Sheetmetal誌の「視点」に「終活」について書いたことがあります。
何人かの読者からは、「そんな年になったのですか」といったメールをいただいたり、お目にかかった折に「もう少し華やいだ話題の方が良いのではありませんか」と、ご忠告をいただいたりもしました。
しかし、私の「終活」はその後も続き、このほど私や家内が亡くなったら入るお墓を契約しました。
いろいろな霊廟のパンフレットを見て見学に訪れ、「ここならば」という霊廟と契約しました。
今どきはお墓を契約するのも大変で、立地条件や環境、契約価格や維持管理費用などのコストパフォーマンスを考えたとき、「ここは」という霊廟は倍率も高い。
私たちと同じように、すでに亡くなっている親族のために契約するというよりも、没後に自分たちが入る霊廟を探しておられる方々が意外に多いことに驚きました。
私のように長男で、田舎に先祖代々の墓がある方もおられましたが、仕事の都合などで田舎には戻ることができず、こちらで霊廟を探されている方も多いようでした。
家内と何カ所もの霊廟を回りましたが、結局は今の住まいに近く、交通の便も良い場所を選びました。
この日曜日に永代使用権の証書をもらいに霊廟を訪れました。
途中で家内とは「次にここを訪れるのはどちらかが亡くなって、納骨や命日にお参りに来るときだけだ。二人そろって霊廟に来るのはこれが最後」などと笑いながら訪れたのですが、そのときに対応してくれた霊廟の係りの方が良いことを教えてくれました。
「この霊廟にお墓ができ、先祖を末代まで供養する場所ができたのですから、まだ、どなたも入っておられなくても、祖先を敬い、今はなき親族の方々に感謝するコンタクトポイントとしてここを活用してください。散歩のつもりでいつでもお訪ねください」。
この話を聞いて「鬼籍へ旅立った親族の人たちをしのぶ場所として、この墓の前で手を合わせて、しのぶことができると思ったら、たしかに散歩気分でいつでも来られるな」と思いました。
我が家には仏壇はありませんが、親族の遺影を前に線香立てを置き、月命日やたまの休みには、故人が好きだった菓子などをお供えしながら線香を上げ、CDに入ったお経をかけています。
自宅でのイベントが先祖とのコンタクトポイントのひとつだと思えば、自分たちが入るつもりで契約した墓はコンタクトポイントとしては申し分ないので、これからは時々訪れては線香を上げ、先祖の方々に話しかけてみようと思いました。
ところで、今から40年も前に、日本の大学へ留学していたイラン人の学生と親しくなり、私の実家に招いて、話をしたことがあります。
そのとき彼は「日本人は神や仏だといっていろいろなところで祈りをささげているが、私から見ると本当に魂を込めて祈っているか分からない。習慣として祈りをささげているような気がする」といった発言を私にしました。
その発言から、私は彼と、イスラム教と日本の仏教や神道のことで議論をしました。
彼は祈りとは魂のこもったものでなければならず、時には痛みを伴うこともあると話しました。
たしかに「剣かコーランか」というイスラムの教えに従えば、日本人の祈りなど魂のこもったものでないと思われるかもしれませんが、私は「心静かにして自分自身を見詰めるために日本人は手を合わせるのだ。輪廻転生、人間は生まれ変わって再びこの世の中に生まれてくる。時間は永遠である。だから手を合わせるのは祖先というよりも自分が過ごしてきた過去を見詰めるための行為なのです」――まだ若かった私は、そんな反論を彼に話した記憶があります。
その後、彼はイランに戻り、政府の役人になりましたが、イラン革命後はイギリスへ亡命、その後の消息は絶えてしまいました。
中東情勢のめまぐるしい変化を見ていると、彼が語っていた「日本人は祈りに魂がない」という発言も分かる気はします。
比叡山の千日回峰行を2回成し遂げた酒井雄哉(さかいゆうさい)師に「一日一生」という言葉があります。
仏教用語ではないようですが、生きるのは「きょう一日」と考えれば、限られた時間を大切に思う、一日を一生と思えば時間を大切に使うことができる、と解釈されるのでしょうが、日本人にはお参りということに対して、そんな思いを込めている方々が多いと思います。
だからこそ永遠の中の今という時間を大切にするとともに、それを叶えてくれた祖先に感謝するために手を合わせて拝んでいるのではないかと思いました。
「終活」もそうしたことを考える契機になれば、それはそれで良いのではないかとも思いました。
感謝感謝、そして合掌。