※この記事は、「Sheetmetal メールマガジン」No.192(2022年8月30日配信)からの転載になります。
熊本に出張した際、宿泊先が熊本城の近くということもあって、熊本地震で被災した城郭の修理が進んでいる熊本城へ早朝散歩に出かけました。一般公開が再開されたとはいえ、地震で崩れた石垣の修復工事がいたるところで行われており、立入禁止区域もかなりありました。
宿泊したホテルのスタッフから教えてもらった散歩コースは、城郭の後方から回り込み、加藤神社の大鳥居前を行き過ぎ、本丸の西北側にある宇土櫓(うとやぐら)を左手に見ながら歩くコースで、天守を備える本丸、飯田丸五階櫓(ごかいやぐら)を眺めることができました。早朝ということもあって空気は冴え、行き合う人もほとんどなく、ゆっくりと天守を眺めことができました。
熊本城を築城した加藤清正は27歳で肥後の国に入り、長く続いた戦国の世で荒廃していた肥後を立て直すために治山治水工事や新田開発に力を入れ、領地経営に力を発揮したと言われます。その治世の成果は、現在も現役で利用されているということです。そのため、清正は領民から「セイショコ(清正公)さん」と慕われ、今も熊本城内には清正を祀る加藤神社があり、毎年7月第4日曜日には「清正公まつり」が開催されています。
城郭を眺めて気がついたのは、茶臼山と呼ばれる台地に築城した清正の先見性です。三の丸、二の丸、本丸を取り囲むように巡らされた堀は深く、天守はむろん各郭の城壁も鉄壁です。石垣は、清正が近江から率いてきた石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」によってつくられた、地面の付近は勾配がゆるく、上にいくにしたがって勾配がきつくなる独特なもので、「武者返し」や「清正流石組」などと呼ばれています。6年前の熊本地震では、この頑強な石垣が大きな被害を受けました。
加藤神社で一息入れたときに思い起こしたのが、武田信玄の「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という言葉です。何万個もの石で築かれた石垣と、そこに建つ威風堂々とした本丸天守閣。そこに至るまでの一人ひとりの石工の奮闘を思い、企業経営も同じように社員一人ひとりの努力によって成果が生み出されていることを考えました。そして、熊本城のような強固な企業をつくり上げるために経営者は惜しみない努力をしなければいけないと、あらためて痛感しました。
ひと汗かきましたが、熊本城への早朝散歩には大きな気づきがありました。