祈りの魂


先週、フランス・パリで起きたイスラム過激派によるテロで、17名もの人命が失われたことはとても残念です。

 

世界中で宗教的立場を超えてテロのない世界を求める世論が高まっています。

その一方で、ジハード(聖戦)をムスリムの義務とするイスラム教そのものを否定して、イスラム教徒に対する憎しみを露わにして、世界中でイスラム教のモスクを襲ったり、イスラム教徒を差別する行為が発生しています。

 

メディアではイスラム教の世界と、キリスト教(西洋)の世界との戦い、などと比喩する報道も現れています。

イラクにおける「イスラム国」の台頭を含め、紛争の火種のひとつがイスラム諸国にあることは紛れもない事実ですが、それだからといって、イスラム教徒を差別することは問題で、そうした行為は許されるものではないと思います。

 

社会人になって間もない頃、イランから日本へ中小企業論を学ぶために留学していた大学院生と、仲良くなったことがありました。

我が家にも来て食事や歓談したこともしばしばでした。

当時のイランはパーレビ国王が統治する王制国家で、ホメイニ師を中心に巻き起こったイラン革命勃発前の頃でした。

 

フセインさんと呼ばれていたその友人は、テヘランの有力者の子息でした。帰国後は政府の役人となって英国に駐在。

その後にイラン革命が起こり彼は英国に亡命しました。

しばらくは音信があって、イラン経済の立て直しに尽力したい、とテヘランへ帰国。

そのまま音信が途切れて20年以上が経過しました。

 

家族の写真を肌身離さずもち、アラーの神様への信仰心も深く、私と話しているといつも、「貴方には信仰心がないのか、日本人には“祈りの魂”がないのか」と言われ続けました。

日本人が仏様と神様に頭を下げることが理解できないということで、仏様と神様のちがいを説明するのに苦労した記憶もありました。

 

イスラム教徒による過激な行動が報道されるたびに、彼は今どうしているのか、元気にしているのかと思い出しています。

そして彼が真剣に問いかけてきた日本人には“祈りの魂”がない、という言葉を思い起こします。

 

昨年末に父を亡くして7日参りを繰り返す中で、唱えるお経「正信偈」にもなじみが出てきました。

たまたま実家は浄土真宗大谷派(東本願寺)であり、親鸞聖人の教えから、真宗の大儀・大綱を七言60行120句の偈文に求めた「正信偈」を必ず唱えます。

 

「帰命無量寿如来 南無不可思議光」から始まる正信偈を、ご院さまと唱和すると不思議と心が落ちつき、15分程の読経の間は信仰の世界に入ることができます。

ご院さまの読経の声がすばらしいので、一層その境地が深くなるから不思議です。

日本人には“祈りの魂”がないといわれ続けましたが、この時ばかりは“祈りの魂”に浸ることが出来ます。

 

そんなことを考えていると、今回のテロに対する世界からの批判と、何よりも平和を求める多く人々の心の中にこそ“祈りの魂”を感じます。

 

キリスト教徒の20億人に対してイスラム教徒は12億人といわれています。

世界の2大宗教でありその意味でも宗派を超えた共生と共存を願うとともに、音信不通となって久しいフセインさんが元気でいることを願います。

Sheetmetalブログ トップページへ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。
コメントの公開は承認制です。ご了承ください。
非公開のダイレクトメッセージも受け付けております。その場合、「非公開希望」とお書き添えください。

Sheetmetalブログ トップページへ