「信頼と輝き」を意味する「私はステンレスです」がキャッチコピー
地場産業を支え、地元メーカー10社と直接取引
有限会社 大伸ステンレス
遊戯機器関連の仕事で大きく発展
1968年、酒井志津香(しづか)社長の父である白旗竹夫会長が、新居浜市阿島で大伸工業所を創業。主に薄板(SS材)を扱い、新居浜市内に事業所があった住友重機械工業のクレーン用運転室、機械室、カバー関係の製作を手がけたことがはじまりだった。
1977年には新居浜市内の豆腐製造機メーカーと出会い、ステンレスの薄板板金加工分野へ参入する。積極的に設備投資を行い、1983年には遊戯機械メーカーから、パチンコ玉研磨機の仕事を受注、20年前に受注が止まるまで、累計5,000台以上のパチンコ玉研磨機の板金部品の製作を手がけてきた。一時期は売上の80%近くを遊戯機械メーカー1社の仕事が占めたこともあった。
そして1987年に本社工場を現在地に移転するのと同時期、パンチングマシンをはじめ、1990年に同社初となるレーザマシン、1997年にはアマダのパンチ・レーザ複合マシンAPELIOを導入した。2004年には1号機目のレーザマシンを最新マシンに入れ替えた。
多種多様な板金ニーズに対応するため、切断・曲げ・溶接・塗装・組立と、一貫したモノづくりが行える環境を整えてきた。1996年には社名を㈲大伸ステンレスに変更した。
事業継承を宣言
白旗会長には2人の娘がいたが、ともに結婚し、家庭を持っていた。そのため白旗会長は、事業継承者の選定を生え抜きの現場社員から考えた。
しかし、企業経営はリスクもともなう。時には銀行と戦う強い意志も必要で、サラリーマン意識ではタフさを要求される経営業に対処することはできない。後継者について考えあぐねている中、次女の酒井志津香社長が、事業を継承すると宣言した。
酒井社長は1987年に27歳で入社、以来30年間にわたって白旗会長を支えてきた。今の姓は結婚により酒井。2008年に2代目社長に就任し、現在に至っている。
「私が小学校の低学年だったころ、父が私と姉のためにお菓子をいっぱい買いこみ、帰ってきました。私たちはお土産に夢中でしたが、その日は、父が会社を退社し、自分の工場を持つことを決心した日でした。退職金の一部で私たちにお菓子を買ってきてくれたようです。工場を創業するということがどんなに大変か、当時の私たちにはまったく理解できていませんでしたが、両親にとっては一大決心だったわけです」。
「創業期は設備らしい設備もありませんでしたが、住友重機械工業様のクレーン関連の板金の仕事を、2次下請けでいただけるようになりました」。
「また私は父親っ子だったので、下校すると父が働く工場へ出かけては工場で遊ぶことが日課でした。工場の油の匂いと騒音が私には心地良かった。そうやって頑固でワンマンだった父の背中を見て育ちました」。
「短大を卒業すると外の世界も見たいと思い、市役所の臨時職員になりました。そこで、主人と知り合い結婚、酒井姓となりました。ちょうどそのころ、それまで父の会社の事務を手伝っていた姉が退社することになりました。父1人では事務を切り盛りするのは大変だと思い、1987年に入社し、仕事を手伝うようになりました」と酒井社長は入社の経緯を語る。
会社情報
- 会社名
- 有限会社 大伸ステンレス
- 代表取締役
- 酒井 志津香(しづか)
- 住所
- 愛媛県新居浜市多喜6-5-8
- 電話
- 0897-46-2388
- 設立
- 1968年
- 従業員数
- 14名
- 主な業種
- レーザ加工、ステンレス板金加工、薄板精密板金加工、試作品加工、追加工、共同開発
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