「芸どころ尾張」をつくった尾張徳川の七代目当主、徳川宗春と「からくり人形」
『Sheetmetal ましん&そふと』編集主幹 石川 紀夫
日本を代表するからくり人形師「九代目玉屋庄兵衛」
名古屋市在住のからくり人形師(尾陽木偶師 – びようでぐし)、「九代目玉屋庄兵衛」(本名:高科庄次氏、1954年生まれ)にお会いして、ロボットの原点ともいわれる「からくり人形」のことをいろいろ教えていただきました。
25歳で七代目の父のもとへ弟子入りし、兄の八代目が急逝したため、1995年に「九代目玉屋庄兵衛」を襲名。1998年には江戸末期に田中久重が製作した傑作「弓曳童子(ゆみひきどうじ)」を完全復元しました。2003年には江戸からくりの代表作として自身が製作した「茶運び人形」を東京・上野の国立科学博物館に、2005年には大英博物館に寄贈しました。同年、「愛・地球博」の愛知県館モニュメントとして「唐子指南車」を製作。2014年11月、「愛知の名工」(「愛知県優秀技能者」)として表彰されています。2015年には京都市から「祇園祭山鉾行事功労者」として、また、厚生労働大臣から「現代の名工」(「卓越した技能者」)として表彰されるなど、日本を代表するからくり人形師です。
NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」などでも取り上げられており、以前から、お会いしてものづくりへのこだわりなどを聞いてみたいと思っていました。
43年連続、日本一のものづくり県の原点
九代目との話が進むうちに、「からくり人形」が尾張(名古屋)に根づいたことが、製造品出荷額で43年連続日本一をほこるものづくり県である愛知県を育てた要素のひとつであると再認識しました。
その元となった「芸どころ名古屋」の発端には、今から290年前、紀州徳川家出身の八代将軍、徳川吉宗と将軍の座を争った御三家筆頭の尾張徳川家の七代目当主、徳川宗春との因縁対決があったことを知りました。
「享保の改革」に異を唱え、ぜいたくを奨励した宗春
開幕以来100年が経過して、台所事情がきびしくなった幕府で八代将軍となった徳川吉宗は、1736年に俗にいう「享保の改革」を実行しました。幕政改革に乗り出し、さまざまな改革を実行する中で、ぜいたくを禁止して、質素倹約を奨励し、華美な芝居などの上演も禁止しました。これによって江戸や上方のからくり芝居も衰退していきました。
一方、尾張藩主の徳川宗春は芝居の興行を奨励しました。倹約することより消費を増やすことで経済を豊かにする自由放任主義を推奨したため、江戸や上方などで仕事を失った飾り職人や芸人が集まったと言われます。「芸どころ名古屋」はこうした宗春の治世で誕生したと言われています。
宗春は吉宗の進める改革に真っ向から反対しました。言い伝えによると、倹約令を守らない宗春に吉宗から使者が遣わされ、宗春が詰問を受けたそうです。その際に「上に立つ主が倹約、倹約とおっしゃっても貯まるのは幕府金蔵の中身のみ。民を苦しませる倹約は本当の倹約なのか。私は金を使うが、使うことによって世間に金が回り、民の助けになるから使っている。口だけの倹約とは異なるものだ」と反論したと伝えられています。
しかし、御三家筆頭といってもしょせんは将軍の家来。吉宗から蟄居謹慎を申し渡され、藩主の座を降ろされた宗春は、亡くなるまで城内に幽閉されたと言われています。しかし、宗春が残したものは尾張に根づいたさまざまな芸人や職人、そして芸事で、途切れることがなく現在まで伝えられています。上方から尾張にやってきた「初代玉屋庄兵衛」のからくり人形の匠の技も九代にわたって継承されています。
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