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父の遺した手紙

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暦の上では9月になっても、残暑の勢いは衰えることを知らないようです。しかし、9月1日から3日まで、富山県八尾での「おわら風の盆」の様子がテレビで紹介されると、たしかに秋が来たことを感じます。

季節はちがいますが日本一の木彫りの町、井波町に仕事で訪れたとき、近在に八尾があることを知り、立ち寄ったことがあります。風情ある石畳みの町並みを歩くと、二胡の音色と、越中おわら節を謡う声が遠くに聞こえてくるような気がしたことを覚えています。

ところで、今年で終戦から73年が経過し、8月6日の広島原爆の日、9日の長崎原爆の日、そして15日の終戦の日に、さまざまな特集番組が報道されました。しかし、時間の経過とともに当時を知る世代が少なくなって、伝えられてきた歴史が風化していくように感じます。

私事で恐縮ですが、5年前に亡くなった父と2年前に亡くなった母の遺品を整理するなかで、偶然、出征していた父が母に宛てて戦地から出した手紙が見つかりました。許婚者同士だった父が満州へ出征、満州から母に出したものや、その後、九州・佐賀県の任地から出したものまでありました。母が大切に保管していたようです。検閲を示す朱印がにじみ、手紙はわら半紙のような粗末な紙に書かれていました。インクがかすんで判読できないところもありましたが、当時の父の心情をうかがい知ることができました。

生前、父から戦争体験を聞く機会は少なく、駐屯していた満州や九州の様子を少し聞かされた程度でした。いわんや、20代前半の血気盛んだった当時の父の心情など、うかがい知ることもできませんでした。しかし、遺された手紙を見ると、「絶対不敗」を信じて出征した父の高揚した心情と、内地に残してきた許婚者や家族の安否を尋ねる優しさが文字ににじんでいました。

なかでも、8月15日の玉音放送を聞いてからもなお、「絶対不敗」を信じていた父の悲しさと悔しさがあふれた手紙には驚きました。終戦を佐賀県でむかえた父の部隊は、その後もしばらくその場に残っていたようです。終戦から7日後に出された手紙には、「15日の悲しい出来事」にはじまり、「絶対不敗の信念に燃え連日、猛訓練や作戦準備に邁進していた我々軍人の口惜しさ、情けなさ(中略)。毎日何の希望もなく、楽しいこともない今日この頃です」、「こんなことを考える私をつまらない男と貴女が軽蔑するかもしれないが……」と続き、最後には「今のところ九州は割合落ち着いて動いていますが、若干デマがあります」と書かれていました。

終戦の年に23歳だった父の偽らざる思いを知って、感動しました。それとともに、8月15日をどのような思いで受け止めていたかを知ることができました。

NHKで放送された終戦の日の特集番組で、終戦から4日後の8月19日に京都の舞鶴港から潜水艦でウラジオストクに向けて出撃した部隊があったと報道されていました。さいわいその潜水艦は上官の命令で港に引き返し、事なきを得たようですが、父をはじめとした血気盛んな軍人のなかには、終戦を信じられず行動を推し進めようとする方々が少なからずいたことを知りました。

その後の父は、そんなことがあったことも語らず、母と結婚、私たち子どもを育ててくれました。心のなかに終戦の悲しみ、口惜しさを封印していたのかもしれません。だからこそ馬車馬のように働き、私たち家族を育ててくれたのかもしれないと思いました。

戦後の高度経済成長の背景には、出征し、帰還した軍人たちの忸怩たる思いがあったということは、書物などからも理解していましたが、身近な父の戦中・戦後の心情を垣間見て、改めてその思いを強くしました。歴史を引き継ぐ世代は何をバックボーンに、何を目指して働くのか ― 問いかけられている気がしました。

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