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建築金物企業を退社し、38 歳で独立 ![]() 「当時勤めていた会社では社員170 名あまりを管理していました。仕事や待遇には不満はありませんでした。しかし、将来設計を考えた結果、独立することを決意しました。独立するにあたって、金属加工業の中でも、自分が一番精通していたプレス加工業を選びました。東大阪市池島に貸工場を借り、知り合いの型屋さんからプレス加工の仕事をもらって仕事を始めました」と打越社長は当時を振り返る。 新規開設した会社の社名は、打越良信社長の頭文字「Y」と、出資金を半分負担してくれた人物の頭文字「M」を合わせたことが由来となっている。その後、打越社長はまた新しく貸工場を借り、アマダの45 トンと65 トンのプレスマシンを導入。建築金物の会社から蝶番のまとまった仕事を受注したことにより、蝶番関連の仕事の基盤ができあがる。 「八尾市内にある蝶番メーカーの営業マンの方が、ピンポイントで私を探していて、そこから仕事をいただけたこともあります。蝶番は数が多く、残業もいとわず仕事をしたおかげで、借入金もどんどん減っていきました」。 同社は、大阪府下、特に八尾市内で、蝶番の製作にかけては他社に一目置かれていたという。1994 年には不幸にも打越社長自身がプレス加工中の事故に遭遇し、医師からは半年間入院する必要があると診断されたが、社長として病室で仕事をこなしながら、忙しいときには病室を抜け出して工場で仕事もこなして急場をしのぎ、わずか2 カ月間で退院したこともあったという。ハプニングにも見舞われたが、そうしためぐり合わせも克服して、再び元気な姿で会社に立つようになった。 「1998 年には、会社設立時の借入金も全額返済しました。この当時は、八尾の蝶番関連の仕事が70% を占め、その他のお客さま15 社ほどから、残り30% の仕事をいただいていました。従業員数は4 人と小所帯でしたが、みんなの頑張りで、何とか乗り切ることができました」と社員の頑張りに感謝する。 板金工場を引き受け、プレスと板金の両立で安定への道 ![]() つづきは本誌2011年12月号でご購読下さい。 |