〜特集:digital-bankin.com「不況・難局の時こそデジタル化を考える好機」〜

新しいパラダイムへ1歩足を踏み出す
1998年からデジタル化に取り組む




山田侑男社長山田侑男社長
2次協力工場として精密板金加工に取り組む
 1971年2月に足利市内で個人会社として創業、1974年に法人化して有限会社ヤマダとなった。1998年10月に現在地に本社工場を移転し操業を続けている。創業当時から薄板の精密板金加工、プレス加工を得意とし、OA機器、情報処理装置、事務用機器、アミューズメント機器などの2次協力会社として、栃木県内はもとより関東一円から薄板製品加工の仕事を受注してきた。1998年の本社工場移転を節目に設備を大幅に更新、源流であるプログラム工程に、2次元CAD/CAM AP100を導入した。そして先頭工程であるブランク工程にパンチ・レーザ複合マシンAPELIO3- 357Vを導入、AP100で作成した加工データをダウンロードしてテープレスで加工ができる現場端末PEU/Winを設置して、スケジュール運転に対応するようになった。
 「できないことより、どうしたらできるかを考える」をスローガンに、モノづくりに取り組む同社の姿を紹介する。

ネットワーク対応型ベンディングマシンHDS-8025NTのAMNC/PC画面からDr.ABE_Bendが作成した曲げデータを呼び出す。ネットワーク対応型ベンディングマシンHDS-8025NTのAMNC/PC画面からDr.ABE_Bendが作成した曲げデータを呼び出す。
還暦を迎えての決断
 2000年に60歳、還暦を迎えた山田社長は身内に事業を継承する後継者に恵まれなかったことから、社内から事業後継者を育成することも含め、これからの同社の将来を考えるようになっていった。
 また、試作や単品の多品種少量生産に対応するため、早くからレーザ加工の特長に目を向け、業界に先駆けてレーザマシンを導入し、効果を確認していた。そして、2001年には3台目となるレーザマシンFO-2412NT+LST-2412FOを導入した。シャトルテーブルを備えた同機の導入によって、材料や加工製品の仕分け作業に伴ってマシンが停止する時間をできる限り短縮し、マシン稼働時間の改善を目指した。
 「1971年に個人会社として創業して以来、他社には真似ができない金属加工業者になることを目指し、...

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