板金論壇

台湾板金業界との連携模索も道のひとつ

『Sheetmetal ましん&そふと』編集主幹 石川 紀夫



台湾で日本を考える
台湾で尊敬される日本人――八田はった與一よいちの存在を、台湾出張中に多くの方々から教えられた。特に9月1日、台南市の烏うさんとう山頭ダム湖のほとりにある八田紀念園区(記念公園)で、八田與一氏の妻である外とよき代樹さんの像の除幕式に参加された台湾の方からは、興味深い話を聞かせていただいた。
日本では、戦前・戦中の日本がアジアで行ってきた様々な行為に関して「侵略戦争」という見方でこれを反省し、同じ過ちを2度と繰り返さない決意が大切だという歴史認識を持っている人が多い。しかし、台湾では少し様子が異なっていた。
台湾は第2次世界大戦前まで、日本をはじめとする列強の統治支配を受けていた期間が長い。日本は1895年、日清戦争で台湾を清国から割譲され統治。1945年、ポツダム宣言を受諾して第2次世界大戦が終了するまでの50年間にわたって台湾を統治した。その間に日本は同化政策によって台湾を内地化してきた。特に、日本語学習の整備などを促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を行ってきた。また、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、台湾の発展にも貢献した。
話をお聞きした台湾の方は、終戦当時15歳で、日本語学習で国民学校から中学校へと進学し、終戦を迎えられた。流暢な日本語で、同化政策によって教育が行われ、鉄道やダム建設による利水事業で台湾、特に台北などの都市部では生活水準も高かったと話してくれた。
また、1949年に中国共産党との内戦に敗れ、台湾へ逃れて国民政府を発足させた国民党政権の人たちは、大陸から来たので電気や水道を見たことも触ったこともなかった。中には、蛇口を買ってきて壁につけたら水が出るとか、天井に電球をぶら下げるソケットをつけたら明かりが点ると思っていた人たちもいたという。実際に、蛇口やソケットを買ってきても水は出ない、明かりも点らないといって、当時の台湾人をひどく叱った方々もいた、という話をしてくれた。

八田與一氏の功績
そして水道や電気を普及させるための利水事業に力を尽くしたのが八田與一氏だと教えてくれた。
八田氏は台湾総督府に勤務して水利事業などに従事していた。特に、台湾南部の嘉南平野の開発では、烏山頭ダムをはじめ、隧道や細かい水路を建設する大規模な計画を立案。総督府職員の立場を捨て、現地に設立された組合の「嘉南・農田水利会」の技師として、工事を推進した。烏山頭ダムは完成までに約10年を要し、現在もしっかりと機能しているという。
八田氏は1942年、陸軍の命令で灌漑調査のためにフィリピンへ向かったが、乗船が米海軍の攻撃で撃沈され、亡くなった。妻の外代樹さんは敗戦直後の1945年9月1日、烏山頭ダムの放水口に投身自殺して亡くなった。その日は、烏山頭ダムの着工記念日だった。外代樹さんの像は、台湾の財団法人である「紀念八田與一文化芸術基金会」と日本側の「八田技師夫妻を慕い台湾と友好の会」の共同で設立された。その様子は台湾のマスコミにも大きく報道された。そして「日台の関係は被害者・加害者という側面だけではなく、歴史的には台湾の発展に貢献したことがあったことを日本人は忘れてはいけない」と説明してくれた。
これらの話を教えてくださった方は、9年前から仲間たちと短歌の同人を結成、これまでに自費出版で2冊の短歌集も上梓されていた。私にもその歌集を贈ってくださったが、詠まれていた歌はいずれも情感あふれるもので、折々の思いや季節感で満ち、豊かな感性を備えていた。同氏は日本企業と合弁で台湾国内でいくつもの会社を興しているが、謙虚で誠実な人柄をお持ちだった。...

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