特集 〜モノづくりアイランド・九州〜

次は「大臣賞」――2度の金賞受賞で社員のモチベーションアップ
新たな事業分野進出にも好影響

シンエイメタルテック 株式会社



田原社長、35歳での一大決心
左より、田原社長、昇開橋を製作した三浦眞太郎さんと小副川徳さん、管理部長の船山伸一郎さん左より、田原社長、昇開橋を製作した三浦眞太郎さんと小副川徳さん、管理部長の船山伸一郎さん
1967年、現社長の父親が自宅脇に仮工場を建てて創業。1971年に神埼市内に工場を建設、巨L栄工業所として設立、配電盤大手の協力工場として盤筐体の加工を行うようになる。1991年には、田原和幸氏がUターンして現社名に変更するとともに株式改組、1998年に2代目社長に就任した。2006年、現在地に本社・工場を移転、現在に至る。
1967年の創業当初から、佐賀市内に本社のある制御盤メーカーの協力工場として配電盤・制御盤の筐体の仕事を手がけていた。しかし、1社偏重は景気変動の影響を受けやすく、バブル崩壊後は受注環境が悪化していった。
現社長の田原和幸氏は幼少の頃から父親の背中を見て育ってきたが、厳しいモノづくりの世界になじめず、大学卒業と同時に県外の会計事務所に就職。会計事務所の顧問先でもあった父親の会社の経理を見ると、経営状態が手に取るようにわかる。「今、手を差し伸べないと」――すでに自宅も建て、結婚して家族もあったが、35歳にして家業を継ぐ決断をした。

先代時代の社員が次々と退社
パンチングマシンEMZ-3610NTパンチングマシンEMZ-3610NT
父親の背を見て育ってきただけに、すぐに要領を覚え、1993年にはレーザマシンを導入して自らがプログラマ、オペレータを兼務。半導体製造装置をはじめとする板金加工の仕事を受注するようになり、1996年には2台目のレーザマシンも導入した。
ところが、工場内のIT化が急速に進んでいくことで、古参の社員が次々と退社していき、田原社長は「納期対応するため1人で夜中までやった」と述懐。新規社員を採用するとともに、以前の社員も1人、2人と戻ってきた。苦難を乗り越え、社員たちとの間にも信頼関係が構築されていった。
1998年に2代目社長に就任、社員たちに現場を任せ、社長本来の職務に邁進することになる。
希望業種への進出のためには、工場の拡張と設備更新にも力を入れなければならない。2003年に第2工場を設けたが、2カ所の工場では効率が悪く、新天地を探し始めた。...

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