〜視点〜

「上善如水」を肝に銘ずる

「上善如水」とは古代中国の老子の言葉で、「上善は水の如し。水は善く万物を利してしかも争わず。衆人のにくむ所にる。故に道に近し」と続く。最上の善とは水のごときものをいう、水は円に入れば円となり、四角に入れば四角となる、よく己を変え争うことがない、また自己を主張せず、誰しもが嫌う“低き低き”へと下る、だから“道”に似ているといって良い――という意味である。
老子の「十徳」は(1)有無相生(善悪、美醜を隔てない)、(2)不争(争わない)、(3)和光同塵(名誉を求めない)、(4)上善如水(謙虚に生きる)、(5)為腹不為目(自らの生命を養う)、(6)無物之象(見えないものを信じる)、(7)絶学無憂(知識より意識を大切にする)、(8)曲則全(理想を人に押しつけない)、(9)知者不言(教育を押しつけない)、(10)天網恢恢(生命の法則によって生きる)―― だが、私は(4)の「上善如水」が一番好きな言葉である。平家物語の冒頭にも「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とあるように、最も重要なのが謙虚に生きることであると思う。
外国人に比べ、日本人の自己主張が少ないことを「日本人が謙虚だから」と考える人もいるが、それはちょっと違う。海外の人たちにも謙虚さを持った人がたくさんいる。過日、米国を訪問した折、20年ぶりに会ったカリフォルニアにある板金工場の2代目経営者が、アマダがブレア市に建設した工場の開所式のレセプションでこんな挨拶をしていた。
「アマダのカルフォルニアにおける今回の投資は、日本とカルフォルニアのさらなる関係強化となる。これまで我々の担うべき仕事が低価格を売りとする中国へ流出し、多くの仕事を失うこととなった。そういう状況の中で、アマダが提供し続けているイノベーションが価格・効率・納期の面で我々を救ってきた。(中略)アマダが米国での製造を再開したことに大変感謝している」。
ファブレス化が進んだ米国で製造回帰が始まり、海外――とりわけ中国へ生産移転していた仕事が米国に戻ってきたことで、再び活況を取り戻し始めた米国の板金工場の経営者は、中国との価格競争の中で板金事業を支えてきてくれたアマダへ率直な感謝の言葉を贈った。何度も日本を訪れたことがあるこの経営者は「日本の板金工場で多くのことを学んだ」と幾度も話し、特に自動化の進展には驚いていた。もともとIT化が進んでいる米国だけに、その工場は今、デジタル運用を際立たせている。しかし、それに奢ることなく、アマダへの感謝と賛辞を惜しまない謙虚さに驚かされた。
1990年代、IT化が進んだ米国を手本としていた日本の板金企業は、2001年に始まったITバブル崩壊後の米国板金業界を見て、不遜にも「米国から学ぶものはなくなった」と感じていた時期があった。正直、筆者もFABTECHなどの展示会へ行くたびに「米国の製造業はどうなってしまったのか」と思うことが度々であった。それだけに米国製造業の復活を目のあたりにして、しかも、それを支えてきてくれたのがアマダの力というスピーチを聞いて感動するとともに、「モノづくりといえば日本」などと奢っていた自分に恥じ入った。米国の板金業界に学ぶものはたくさんある。特にストライクゾーンを決め打ちした営業努力や、機械設備のあり方など、日本の板金業界が学ぶべきことは多い。
「上善如水」――流動変動するにあたっては時にかなう。変化に対応するために我々は謙虚さを忘れてはいけないことを、肝に銘ずるべきである。