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曲がらないモノでも曲げる
分業が進んだ大阪で“曲げ”に特化した職人集団

野田金属工業 株式会社



“ 曲げ”の職人集団
代表取締役の野田邦雄氏と、同社のルーツである「再び命を与えてくれた鍋」代表取締役の野田邦雄氏と、同社のルーツである「再び命を与えてくれた鍋」
「当社は最初から“量”ではなく“個”にこだわってきました」と代表取締役の野田邦雄氏は語っている。
野田社長がいう“個”とは、個人・個体・個性などの単語でも使われる“単一固有の”というような意味合い。野田金属工業(株)は、1965年に野田社長が創業した当初から量産とは距離を置き、同社ならではの高い技術を要する難度の高い曲げ加工製品にこだわってきた。
大阪のモノづくりは他地域と比べ、シャーリング・レーザ・曲げ・溶接・研磨・塗装と、工程ごとの分業化が進んでいるのが特徴。その中で同社は“曲げ”に特化した職人集団として高い評価を得ている。
曲げを得意とする企業はほかにもあるが、同社ほど充実した設備を備えている企業は多くない。6mまでの曲げに対応できるだけでなく、レーザマシンやパンチングマシンも設備してブランク加工にも対応し、OA化やCAD化もいち早く進めてきた。そのため、周辺地域の同業者が、自社で対応できない仕事を持ち込んでくるケースも多いという。
同社は建築板金製品をメインに手がけてきた。取り扱ってきた製品はステンレス製のトップライト、店舗の内外装、什器、サイン、自動ドア、玄関アプローチの化粧幕板、階段手すりなど幅広く、建築以外だと鉄道車両の側構体なども製作する。また、高い曲げ加工技術を活かし、アーティストのオブジェ制作も引き受けている。
得意先は毎月の安定受注先が140社前後、年間では200社以上になる。メーカーとの直接取引は数少なく、主な得意先はサッシ・シャッターの施工業者やOEMメーカー、サプライヤーなど。こうした企業が設備や技術力の問題で対応できない特別難度の高い製品が、同社に集まってくる。

ルーツは満州時代の“鍋”
玄関アプローチ内に展示された野田正明氏の作品のひとつ「Seeker-N2 探求者・求道者」玄関アプローチ内に展示された野田正明氏の作品のひとつ「Seeker-N2 探求者・求道者」
野田社長は「当社のルーツは、第2次世界大戦中の1942年に開拓農民として満州に渡り、1945年の敗戦で棄民となり、生死の境で“喰う”ために製作した鍋です」と語っている。
「私が数えで17歳の冬、終戦直後の旧満州で、自分の手だけを頼りにつくったのが、この鍋です。当時、満州ではキビが主食でしたが、穀物を食べるには煮炊きしなければなりません。極限状態での“必要”に迫られ、道具らしいものがない状態で、ペチカ(ロシア式暖炉兼オーブン)に巻いてある鉄板をめくって、叩いて、器のカタチにして、生計を立てました。あれこそが現在、私が生存している原点――当社のルーツです」。
日本へ引き揚げた後、野田社長は卵の小売りを営んでいたが、1963年頃に現在のスーパーの原形が出始めた頃、再びモノづくりの世界に入っていった。
「時代が移り変わろうとしていました。私が販売している卵は1個10円なのに、大手スーパーでは1個1円で客集め。それから、洋食器くらいでしか使われていなかったステンレスが建材やサッシ、百貨店の什器でも使われ始め、『これは普及するにちがいない』と考えて、ステンレスの加工を手がけるようになりました。私はモノづくりが好きでしたから、職を変えることに少しも抵抗はありませんでした。扱うモノが変わっても、鍋や卵と本質は同じ――お客さまに必要とされ、喜んでもらえるかどうかです」(野田社長)。...

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