〜視点〜

知識・見識・胆識



昭和天皇による「玉音放送」で発せられた「終戦の詔勅」の草案作成にかかわり、「平成」の元号の考案者でもある安岡正篤師。佐藤栄作・中曽根康弘首相に至るまで、昭和歴代首相の指南役を務めるとともに、昭和を代表する多くの財界人に師と仰がれた同師の言葉に、次のようなものがあります。
「知識というものは、薄っぺらな大脳皮質の作用だけで得られます。学校へ行って講義を聞いているだけでも、あるいは参考書を読むだけでも得ることが出来ます。しかし、これは人間の信念とか行動力にはなりません。知識というものにもっと根本的なもの、もっと権威のあるものが加わらないと、知識というものも役に立たない。それは何かといえば見識です。事に当たってこれを解決しようとする時に、こうしよう、こうでなければならぬという判断は、人格、体験、あるいはそこから得た悟りなどが内容となって出てきます。これが見識です。そして決断力、実行力を持った見識が胆識となる。胆識は肝っ玉を伴った実践的判断力とでも言うべきものです。困難な現実の事態にぶつかった場合、あらゆる抵抗を排除して、断乎として自分の所信を実践に移していく力が胆識ではないかと思います」。
連休中に安岡師の著作を読み返しながら、この言葉の意味を考えました。
筆者が「視点」に執筆している程度の内容は、“知識”以外の何物でもなく、せいぜい海外を含めていろいろなお客さまと会話することで得た、いくばくかの“見識”を述べたとしても、実践的な判断力を持った“胆識”を述べることはなかなかできません。しかし、私たちのような専門誌を含めたメディアに登場するジャーナリストという存在は、知識・見識を披露して、政治・経済・社会情勢を批評します。その批評によって世論が形成され、世の中を変えていくことさえあります。政治家にはメディア出身者が多く見られますが、優れた経済人はあまり存在していないのが現実です。
最近いろいろな読者から「視点」を楽しみにしているとお聞きします。ありがたいと思う反面、「視点」の内容が知識か、見識か、はたまた胆識から執筆したものか、読者にはそれがどのように受け止められているのか、考えさせられます。
バブル崩壊後の「失われた20年」で日本を取り巻く環境は激変しており、これまでよりどころとしてきた価値観にも変化が求められています。企業活動を中小企業のグローバル化の視点で見れば、日本は隣国の韓国・台湾・中国からみても遅れています。特に新興諸国のボリュームゾーンに対応したビジネスでは、これまでの日本的なモノづくりの考え方ではコスト競争に関しては通用しない実態も見えてきました。孤立した環境(日本市場)で“最適化”が著しく進行すると、「エリア外との互換性を失い孤立して取り残されるだけでなく、外部(外国)から適応性(汎用性)と生存能力(価格競争力)が高い外来種が導入されると最終的に淘汰される危険がある」という、ダーウィンの進化論になぞらえた日本のガラパゴス化に対する懸念が以前から議論されてきましたが、日本的なモノづくりプロセスにもガラパゴス化が起きています。日本品質を支えてきたサプライヤーの努力がグローバルスタンダードになることの難しさは、海外を回るたびに痛感します。“適地適産”という考え方の中では“価格”が最大のターゲットであり、コモディティ化した工業製品の競争では“価格”がすべてです。そのようなグローバル環境にどのような胆識を持ち合わせ、読者と議論していけばいいのか――悩ましい連休を過ごしました。