〜SHEET NOW〜

プレスと板金の強みを出し合い、一番いいカタチでお客さまに提案
パンチングマシンAE-2510NT のキズなし加工で得意先の要望をクリア

株式会社ワイエム



建築金物企業を退社し、38 歳で独立
AE-2510NT の前で、打越良信代表取締役社長(左)と打越陽太専務取締役(右)が肩を並べるAE-2510NT の前で、打越良信代表取締役社長(左)と打越陽太専務取締役(右)が肩を並べる
1992 年、当時38 歳だった打越良信社長は、長年勤めていた建築金物企業を退社し、(有)ワイエム精工舎を設立した。
「当時勤めていた会社では社員170 名あまりを管理していました。仕事や待遇には不満はありませんでした。しかし、将来設計を考えた結果、独立することを決意しました。独立するにあたって、金属加工業の中でも、自分が一番精通していたプレス加工業を選びました。東大阪市池島に貸工場を借り、知り合いの型屋さんからプレス加工の仕事をもらって仕事を始めました」と打越社長は当時を振り返る。
新規開設した会社の社名は、打越良信社長の頭文字「Y」と、出資金を半分負担してくれた人物の頭文字「M」を合わせたことが由来となっている。その後、打越社長はまた新しく貸工場を借り、アマダの45 トンと65 トンのプレスマシンを導入。建築金物の会社から蝶番のまとまった仕事を受注したことにより、蝶番関連の仕事の基盤ができあがる。
「八尾市内にある蝶番メーカーの営業マンの方が、ピンポイントで私を探していて、そこから仕事をいただけたこともあります。蝶番は数が多く、残業もいとわず仕事をしたおかげで、借入金もどんどん減っていきました」。
同社は、大阪府下、特に八尾市内で、蝶番の製作にかけては他社に一目置かれていたという。1994 年には不幸にも打越社長自身がプレス加工中の事故に遭遇し、医師からは半年間入院する必要があると診断されたが、社長として病室で仕事をこなしながら、忙しいときには病室を抜け出して工場で仕事もこなして急場をしのぎ、わずか2 カ月間で退院したこともあったという。ハプニングにも見舞われたが、そうしためぐり合わせも克服して、再び元気な姿で会社に立つようになった。
「1998 年には、会社設立時の借入金も全額返済しました。この当時は、八尾の蝶番関連の仕事が70% を占め、その他のお客さま15 社ほどから、残り30% の仕事をいただいていました。従業員数は4 人と小所帯でしたが、みんなの頑張りで、何とか乗り切ることができました」と社員の頑張りに感謝する。

板金工場を引き受け、プレスと板金の両立で安定への道
徹底したメンテナンスを行い、10年以上経っても加工精度が劣化していないパンチングマシンARIES-245U徹底したメンテナンスを行い、10年以上経っても加工精度が劣化していないパンチングマシンARIES-245U
「2008 年暮れから2009 年半ばまでの半年くらいは、リーマンショックの影響がこたえました。創業以来、常に土曜出勤しなければならないほど仕事量があったのですが、この時ばかりはそうはいきませんでした。売上は40% 近く落ちてしまいました。しかし、その厳しい時期をなんとか“きばって”乗り越えました。そんな時に同じ貸工場で板金業を営んでいた方が、高齢になり、引退を機に会社を畳もうとしていました。工場や設備などの買い取り手を探していて、当社にも声がかかりました。元々、仲間同士のような関係だったので、何とかしたいという思いがありました。会社を整理してしまえば、そこで働いていた社員も路頭に迷ってしまう。そんなに余裕のある時ではありませんでしたが、その会社の設備と社員を丸ごと、引き受けることにしました。当社が蝶番に代わって受注するようになった空調関係の得意先が一緒だったので、社員の技術力が高いということも知っていました。その技術も活かそうと思い、板金分野に参入することになりました」。...

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