〜東海発、元気印企業の“仕事術”〜
航空機部品を手板金で加工してきた歴史 末次正明 代表取締役社長
清流・長良川は、これから秋口まで名物の鮎関連で観光客が多く訪れる。この近くにあって2本の川の中州中央に位置する同社の工場周辺には時期的に色とりどりの花菖蒲が咲き誇り、のどかな田園風景が広がる。同社を訪問するのは2003年以来の2回目。前回はネットワークを早くから導入し、ネットワーク対応ベンディングマシンと立体姿図を最大限活用することが社員の仕事への自信につながった、という話を中心に聞いた。今回は、その後の運用状況とステンレス製インテリア事業にも参入しているということで、2代目社長の末次正明氏と、末次社長の子息で専務を務める末次明氏に話を伺った。 航空機部品で磨いた手板金加工技術 工程統合マシンLC-2012C1 のAMNC/PC を操作する。奥には材料自動供給棚
同社は「困っていることをやる」を社内標語として掲げ、レーザ加工・タレパン加工・曲げから溶接までを手がける。「当社は1957年に父親が創業しました。父は農業のかたわら、隣町の各務原市にある川崎重工業各務原工場に勤め、同工場で製作していた航空機関連の板金仕事に携わっていました。その後、1957年に独立、許鮪沒S工所を設立し、自宅の庭先に仮工場を建てて、川崎重工業から航空機部品などの板金部品を受託生産するようになりました。1960年頃からは航空機部品の板金加工で培った技術を民需にも活かそうと、関市周辺の工場から様々なプレス・板金製品の仕事を受注するようになりました」と末次社長は語り始める。 「当時は、工場といっても大半は叩き板金で、タガネやハンマーなどの道具が活躍していました。もともと、航空機部品はレーザ加工のような熱が加わる加工を行うと切断面に変質層ができ、それが原因でマイクロクラックが入ります。そのため、チタンなどの材料からコンターやはさみで板取りして、ポンチで穴をあけ、曲げ線をケガいて、そこにパンチを引っ掛けて折り曲げを行っていました。まったくの手づくりで、1個1個仕上げていきました」。... つづきは本誌2011年8月号でご購読下さい。 |