〜視点〜

プラザ合意以降の日本経済を回顧し、企業の進路を模索する




日本の円高は1985年9月の「プラザ合意」から始まった。これにより、双子の赤字(財政と貿易)に悩むアメリカ経済を立て直し、基軸通貨であるドルの信頼が失われることを避けるため、各国の通貨をドルに対して高めに誘導することが決まった。輸出の増大で膨大な貿易黒字を上げていた円に対しては大幅な円高誘導が行われ、1年後の円相場は1ドル150円とほぼ2倍に上昇。日本国内では「円高不況」が懸念され、政府・日銀は低金利政策を継続的に採用する金融緩和措置を実行した。その結果、企業・個人の間では余剰資金による不動産や株式への投機が促進され、日本はバブル経済に突入。1992年にバブル経済が崩壊すると、投機に走った企業の倒産が相次ぎ、不良債権を抱えた金融機関の経営不安が生じた。
一方、双子の赤字で苦しんでいたアメリカは、その頃から「情報スーパーハイウェイ構想」に象徴されるIT産業が脚光を浴びてIT関連企業が急成長、ITバブルが始まった。それからはデリバティブ取引などITを活用した金融取引が増加、様々な金融商品も開発された。ITと金融経済に走るアメリカでは製造業が衰退。良質な日本製品“Made in Japan”への信頼が高まり、自動車をはじめとする工業製品の対米輸出が増大、日本経済は再び好景気に沸くようになった。日本は巨額の貿易黒字を抱え、為替市場では円買いが進み、1995年には一時的に1ドル79円57銭という高値を付けた。国内で生産・輸出する構造では国際競争に勝てないと判断した日本企業は生産の海外シフトを加速、特に量産品は人件費の安い中国・タイなどの東アジアへ生産移転し、産業空洞化が現実のものとなった。
2001年9月11日に発生した同時多発テロによって世界経済は再び減速を始めたが、2000年から2007年までの間、円は110〜130円を維持し続けた。プラザ合意以来続けられてきた低金利政策によって、日本の余剰資金が金利の高い米国債やサブプライムローンなど様々な金融商品に投資される「円キャリー」が促進され、アメリカに資金が流入した結果、円安・ドル高の状況が継続した。日本製品は強い国際競争力を持続し、海外に生産移転された製品も再び日本へ回帰するなど、輸出依存型の日本経済が復活した。
しかし、金融経済がリードする状況は長くは続かず、実体経済の不振で失業率が2桁近くにまで悪化したアメリカでは雇用不安が続き、低所得者向けの住宅ローン、サブプライムローン問題が2007年に顕在化、2008年9月15日には全米4位の証券会社リーマンブラザーズが経営破たん、「リーマンショック」による金融危機が実体経済に波及し、世界同時不況が始まった。輸出依存の日本経済も多大な影響を受け、同時に日米の金利差による円キャリーでアメリカ経済を支えるという政府・日銀の目論見も水泡に帰した。
為替相場では、各国の金利引き下げ政策による金利差縮小などの影響で円買いが続き、80円台割れが懸念される状況となって、日本企業は改めて生産の海外移転を加速するようになっている。プラザ合意の頃とは違い、日本の財政赤字も900兆円にまで膨れ上がり、ファンダメンタルの信頼は崩れた。しかも、2015年を境に人口が減少に転じ、高齢化社会を迎える日本の成長神話は瓦解している。
政府頼みの時代は終焉。日本に残る仕事を創出し、世界で勝ち残れる企業体質を構築するための自助努力としては何があるのか。企業経営者にとっては悩ましい時代が続く。