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わずか14年で板金企業としての王道を往く
YouTubeで動画配信、顧客開拓を狙う

有限会社共伸テクニカル



やんちゃな高校生が数年後には社長に
桑原俊也社長桑原俊也社長
「私は元々、静岡県富士市の工業高校を出ましたが、当時は就職試験を受けてまで就職したくないと考えていました。しかし、遊んでいるわけにもいかず、ちょうど叔父が相模原で土木業を営んでいたので、そこを頼って上京しました」と桑原社長は自身が現在の仕事に就くまでの経緯を話し始めた。
叔父の会社で5年くらい勤めたが、倒産してしまい従業員で新会社を立ち上げて取締役として働いていた。
「25歳で結婚したのですが、岳父が相模原市内で兄弟(叔父)と二幸製作所という板金業を営んでおり、『やってみないか』と誘われました。『社長ならやる』と言うとそれが通り、1996年に叔父の工場の一隅で岳父ともう1人の仲間とで板金・製缶を主とする共伸テクニカルを創業しました」。若さとガッツのある熱い心が生み出した会社創業のエピソードである。
桑原社長は板金加工業は設備投資が必要な業界と認識していた。しかし、創業当時はまだ設備らしい設備は何もなく、あるのはアセチレンガスや溶接機くらい。この仕事を始めてすぐに図面を読めたことが「やれるんじゃないか」と自信を持つきっかけとなった。二幸製作所の社長からバックアップしてもらいながら、岳父の指導により、なんとか仕事をこなしていく。製品を製作するにも二幸製作所の仕事が終わった後に機械を借りて加工した。機械がないために鉄板はガスで切断するしかなく、溶接のみの仕事は機械が要らないため非常にありがたかった。殆どを手作業で製作していたために生産性が悪く、利益は出ない。客先の指定で錆止め塗装を行わなくてはならず、仕事が終わったあとに40坪ほどの工場内にブルーシートをかけ、塗装作業を行い、帰りはいつも夜中だった。3年くらいは「やってもやっても赤字続きで、義父と私自身の給料は3カ月に1回くらいしか貰う事ができず、義父がもう辞めようか」と弱音を吐くこともあった。

アマダのレーザマシン導入がターニングポイント
ブランク加工はレーザマシンFO-3015NT+AS-3015FOで行うブランク加工はレーザマシンFO-3015NT+AS-3015FOで行う
その頃、工場にはちょくちょくアマダの営業マンが訪ねてきていて、手作業では限界があると感じていた桑原社長は「レーザマシンの出物があったら気を付けておいて」と頼んでいた。2年後の1999年に「レーザマシンLC-2415αIII+LMP-2412αの中古が出た」という報せが入り、大喜びで導入した。
「これが大きな転機でした。5'×10'タイプのαだったので大板にも対応でき、お客さまが付くようになりました。扱うモノは薄板でも中板でもOK、どんな大きさの製品でもやりましたが、マシンが大きいので小さいモノはコスト負けすることがあります。今は多品種少量になり、ロットは1〜5個くらいがほとんど。新規8割、リピート2割くらいですが、新規品はリスクが高い。リピート品は小さな失敗であれば次で取り戻せます。今でもやはりリピートの仕事はほしい」。
リーマンショックで仕事は落ち込んだが、この春以降からは徐々に回復基調に乗ってきている。得意先は約40社で、そのうち主力は4社くらいだが、リスクを嫌って同じ業種に偏在するのは努めて避けている。...

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