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空洞化を避けるために日本はエンジニアリング力を強化
最適地生産・最適地供給―加工から組立までをすべて中国で

株式会社太陽機械製作所



「天空に輝き、万物を育む太陽のように」が会社の元始
柳本利幸社長柳本利幸社長
先代が創業、社名はこの世にとって太陽のようになくてはならない会社であり続けたい、との願いを込めて命名。以来、「私が創った会社もすべて太陽という冠を付けています。先代はプレス作業は労働災害が発生しやすいということでプレス板金加工には手を出さないという方針を貫いてきましたが、私が社長になってからは、世界のニーズに対応するためにはフルターンキーに対応しなければいけないと考え、板金加工から表面処理にも事業を拡大してきました」と経緯を語る。

中国に進出したきっかけ
パンチングマシンAC-2510NTパンチングマシンAC-2510NT
「バブルが弾け、グローバル化への布石をしておかないといけないと考えました。中国に出るということで、ある新聞社に取材され、『中国への進出は日本を空洞化させる要素が含まれているのではないか』と質問されました。それに対して『それは違うよ、日本にこだわっていては、企業が生存できるかどうかは不明。世界の中で生きていける力を持って共存共栄をするカタチを創っていかないと日本は生き残れない』とコメント。すると、記者から『それを聞いて力強く感じました』と感想を話されたことがありました」。
柳本社長は、中国に出かけていろいろな要人と会った。その中で1998年に会った政府関係者は「(共産主義という)思想は変えないが、日本などの資本主義の良いところを採用して、中国人民の技術も生活レベルを向上したい」と言われた。この話を聞いて、「改革開放路線が定着してきた」と感じたという。以来、丸1年かけて毎月1週間ずつ、中国へ出張し中央政府や、進出を考えていた地方の政府関係者と面談して進出先を絞り込んでいった。その中で蕭山(ショウサン)市長とは「蕭山市をどうしたいのか」と熱っぽく対話し理解を深めた。市長は『西湖という風光明媚な蕭山を工業化したい』と語った。それなら我々でも役に立てるかも知れない、と意を決し進出を決めた。大連・広州などの経済開発区を見たが、どうせ出るなら大陸のど真ん中に出たいと考えた。同社の設備で1番重量のある設備は約30トン、地盤の固い地域を探し、結果、1999年3月に蕭山太陽機械有限公司を設立し、翌年本格稼働させた。工場の生産ラインは日本とオンラインで繋がれ日本でエンジニアリングされて完成したソフトによって稼働させている。

譲れないコンセプト
柳本社長の海外進出のコンセプトは事業活動を通じて日本と中国の架け橋の役目を果たしたい―それを基本思想にしていた。同社進出の2年後くらいに各メーカーが中国、中国と騒ぐようになり、日本からバイヤーも多く出てきた。同社が製造する装置はいろいろなパーツがないと製品にならない。当初はローカルベンダーから部材を集めてみるが精度などの点でレベルが揃わない。さらに、個々の単品コストは安いがトータルにすると高い値段になる。バイヤーが求めているのは何かと考え、すべての部品が日本品質で製造できるサプライヤーを目指すに至り「自分たちのゾーンに入ってもらったらすべての部品が日本の品質で調達できます」とPR。一般部品の仕事はローカルに任せ2/100以下の精度の高い部品ができる会社にしよう、と挑戦。次にはミクロン加工を安定させ、さらに表面処理にも進出した。...

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