〜SHEET NOW〜

YAGレーザ溶接で高品位な製品を実現
ステンレス製トラック用品の開発・製造で一時代を築く

田中ステンレス株式会社



ネットショップ「ステンレスアートG-1」の画面ネットショップ「ステンレスアートG-1」の画面
就職難の時代の洗礼を受ける
田中辰夫社長は、九州の大学を卒業後、名古屋の大手工作機械メーカーに就職が決まっていたが、1974年のオイルショックで突然の内定取り消し。急遽、大阪の大手トラックディーラーのサービス部門に就職が決まった。1970代後半に掛けてヒットした邦画「トラック野郎」が火付け役となって、トラックのフロントやボデーに派手な電飾や外装パーツ類、ステンレスやスチールでフロントデッキなどを飾って走るデコトラ全盛の時代であった。そこでトラックの外装用品(リアバンパー、フェンダー、ナンバープレート枠、テールボックス、フェンダーカバーなど)の開発・設計・製造・販売までを目標に脱サラ、独立した。

本社工場で、仕上げを聞きに来た社員にアドバイスをする社長本社工場で、仕上げを聞きに来た社員にアドバイスをする社長
2足の草鞋を脱ぐ
サラリーマンとして会社に勤めながら、自宅ガレージにコンターマシンを導入して、夜な夜な作業に励んだ。「一番難しかったのはステンレスの加工でした」というようにトライ&エラーを繰り返しながら少しずつ加工ノウハウとコツをつかんで上達していく。知り合いから頼まれて製作するうちに評判となり、それが会社に知れるところとなり、2足の草鞋をきっぱりと脱いだ。
退職後、最初はガレージ2台分くらいの工場にベンダーとコンターマシンで仕事を始めた。営業しなくても従来からの客が訪ねてくるようになり、あっという間にボリュームが増え、徹夜・徹夜で対応しても追い付かず、従業員を1人、2人と増やしていく。事業の拡大に併せて工場を移転、設備もRG125やプログラム作成用CAD/CAM AP60などを導入していった。製品は評判を呼び、今では4大トラックディーラーと提携するとともに自社HP(www.stnart-g-1.jp)や雑誌に広告を掲載してPRを行い、インターネットからの受注も増加している。同社の財産である顧客リストは述べ1万人を突破、コンピュータに記録されている注文履歴を電話1本で瞬時に開き、入念な聞き取りで世界唯一無二の製品づくりで固定客も定着している。
受注増大に対応して工場も移転。移転先の工場は幹線道路の交差点に面しており、信号待ちの車からレーザ加工機LC-645で加工する様子が見え、それをきっかけに一般板金の加工依頼も来るようになり、ある大手菓子メーカーから食品加工用の機器類や筐体なども来るようになった。今、工場の中では菓子製造用の大きな攪拌装置に使われるSUS製の容器が作成中だった。このように一般部門も伸びてきて、トラック用品6対一般板金4くらいにまで成長した。...

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