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念仏を唱和し、心の安らぎを願う

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参議院選挙で与党が2/3の議席を獲得、長期安定政権が誕生することで「アベノミクス効果」に期待する声も大きくなっています。特に秋以降に予測される28兆円の経済対策、そして年明けには平成28年度第3次補正予算も考えられることから、財政による景気てこ入れへの期待は高まっています。

しかし、世界に目を移すと、リオデジャネイロ五輪で心浮き立つはずが、無差別テロの横行、軍事クーデターの勃発など、安全・安心の担保が難しくなってきています。

そんな世相の中、この6月に母が90歳で亡くなりました。両親を浄土へ送り出すことができほっとする一方、35日の忌明けまで、七日参りで毎週実家へ帰省するのも大変でした。そんな七日参りで私にとって新鮮な経験だったのは、仏前でお経を唱えていただくご住職とともに、声を合わせてお経を唱えることができたことでした。実家は曽祖父の代から親鸞聖人が開山した浄土真宗大谷派(東本願寺)を菩提寺としており、小さい頃から、亡くなった祖父母の命日のたびに聞くお経には関心がありました。父は60歳を過ぎた頃から、菩提寺のご住職に教えてもらい、親鸞聖人の「正信偈(しょうしんげ)」を暗記して、毎夜、母と仏壇の前で唱えるのを日課とするようになりました。帰省で実家に戻ると、夜には皆が仏間に集まり、父の唱える「正信偈」を聞くのが常となっていました。

「読書百遍意自(おの)ずから通ず」というように、少しでもお経の意味するところを解し、そのことによって物の見方、考え方が改まるということもあると思います。門前の小僧ではありませんが、耳になじみ、どことなく心の安らぎを感じたものでした。

「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい) 南無不可思議光(なむふかしぎこう)」(かぎりなき“いのち”の如来に帰依し、かぎりなき“ひかり”の如来に南無したてまつる)という最初の言葉が、いつの間にか頭の片隅に記憶されていました。そして今回、母の七日参りでは、毎回、ふりがながふられた「正信偈」を、ご住職と一緒に唱和できるようになりました。

聖人は「念仏」を唱えるということは、それは阿弥陀仏のお名前、つまり名号を唱えることであり、その名号は実は「阿弥陀仏」だけをいうのではない、「南無」を含めて、「『南無阿弥陀仏』の全体が名号である」と教えておられます。さらに、「帰命無量寿如来」という名号は、量り知れない私の「いのち」の源が、私自身の在り方を呼び覚まそうとしている、その「よびかけ」であることに気づかされる、というのです。

また「南無不可思議光」という、思慮を超えた「智慧」の「はたらき」が、私の人生の道理を明らかにし、現に道理に包まれて生きている私を、照らし出していることを思い知らせているというのです。そうしたことに気づかされ、思い知らされるとき、唱える念仏は、苦悩する自身を救おうとする「よびかけ」と「はたらき」に対する感謝の念仏となる―と聖人は言われています。

「凡聖逆謗斉回入(ぼんじょうぎゃくほうさいえにゅう) 如衆水入海一味(にょしゅうすいにゅうかいいちみ)」(凡夫(ぼんぷ)も聖者も極悪の人も、自力心を捨てて信心の道に入れば川の水が海に入って一味(いちみ)になるがごとく、平等に救われる)ともあります。しかし、自力心を捨てるというのは凡夫には大変なことです。我執とは言いませんが、目指すべきものがあり、それを完遂したいと思う気持ちは誰にもあります。たしかに60歳を過ぎてくると意外に我執がなくなってくるとは思いますが、なかなか信心の道には入れない、という気持ちが素直なところかもしれません。

しかし、周りを気にせずに声を上げて念仏を唱えることによって、自分の気持ちに素直になれるのも事実です。信仰を持たれている人を見ると、一本すじが通っているように思うこともあります。世相が激しく変化するときだけに、心の安らぎが必要なのかもしれません。

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